蛤御門の変


長州藩士が京都の池田屋新撰組からひどいめにあった。それで長州か羅京に兵をさしむけた。 1864年(元治元年)のことである。御所の護衛に当たっていた会津、薩摩、桑名藩と激戦が行われた。

この戦いで京は焼け野原となった。この大火でかって開かれたことのなかった禁門がはじめて開かれた。「焼けて口開く蛤」とたとえて、蛤御門と呼ばれるようになった。


この蛤御門を入ったところに樹齢300年の椋木がある。清水谷という公家の屋敷があったことから「清水谷の椋」と呼ばれていた。1864年禁門の変のとき長州藩士で遊撃隊長の総督だった来島又兵衛がこのこの付近で討ち死にしたとも伝えられている。

上から二番目が蛤御門 蛤御門の石碑の右に門柱が見える.門柱の下の金具の少し上に白くなっているところは銃弾の跡。