1945年8月15日

62年前の8月15日朝から空は青く太陽の日差しが肌に痛いように照り付けた。学校は夏休みで近所の幼友達が集まりいつものように米屋のおばさんが草鞋の造り方を教えてくれるので配給の米のない俵置き場に車座に座った。このおばさんは京都の近郊の出で草鞋ずくりが得意だった。

我々は戦争が激しくなり履く靴すらもない生活で配給する米のない米屋の三和土が草鞋作成の作業場であった。夫々がわらで5分程度編み上げた時誰言う事もなく今日12時に天皇陛下玉音放送があるからここで皆んな起立して拝聴するようにという事であった。これはひょっとして日本軍が益々軍備を整えて鬼畜米英と激しくやるから国民ー婦人、小国民頑張ってくれるようにとの激励の放送かなと胸をとどろかして待つ事30分。12時丁度に天皇の言葉がラジオから流れ出した。

ラジオ放送の音が明瞭でなく、何を言われているのか十分に判らずただ一生懸命に耳を傾けておりました。ただ「湛えがたを湛え、忍びがたきを忍び」のところは明瞭に聞こえました。それで最後まで聞いたのですが全体として何をおしゃったのか良くわからずじまいだつた。午後時間が経つにつれて日本は戦争に負けたらしいことが近所の人たちから傳り敗戦がはっきりした。

私は今まで日本の空には毎日不気味な姿の米軍機B29が来襲し、東京,大阪など大都市が爆撃されて酷い状態になっていて6日に広島、9日に長崎に新型爆弾で焼け野が原になった事を聞いてはいた。しかし新聞、ラジオでは日本の軍事戦果が報じられこれからが正念場で、まだまだ負けない。昔弘安の役で蒙古軍が来襲の時は神風が吹いたようにきっと神風が吹いて日本を助けると聞いていたので敗戦の知らせはショックだった。また悲しかった。

特に京都は爆撃を受けて無かったもので敗戦で戦争が終わった事の嬉しさが無かったのかもしれません、いずれにしても敗戦である事は事実だったのか途行く人は沈みがちで、陰気で暗い顔をしていました。夕方父が会社から帰ってきて戦争に負けたと一言いったきり黙りこんでしまいました。この先米軍が日本に進駐して京都にもきたら父親なんかどうなるのかなと心配の気持ちで頭がいぱいでした。元野砲隊の肩幅の広い後姿に漂う寂しさ、涙が出そうでした。しかし8月15日を契機として日本が民主主義の道を歩きだしたのは万々歳でした。