夏目漱石の文学観

私が20才前後だったと記憶している。漱石草枕を読んだ。今なを記憶している、有名な1節からはじまる。つまり山路を登りながら、かう考えた。カント哲学の「知」に働けば角がたつ。「情」に棹させば流される。「意」地を通せば窮屈だ。

漱石流にユーモラスでで文学の達人的、神様的な表現だ。この文章の485ページに次のような表現がある。漱石の宿泊所の仲井さんが「お勉強ですか」「御這入りなさい。ちつとも構いません」女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。

くすんだ半襟の中から。格好のいい頚の色が、あざやかに,、抽き出ている。女が余の前に座った時,此の半襟の対照が第一番に眼についた。「西洋の本ですか、むつかしい事が書いててあるでせうね」「なあに」「じゃあ何が書いてあるんです」「そうでもすね。実は私にも、よくわからないんです」「ホ,、、、、。それで御勉強なの」「勉強じゃありません。かう開けて、開いた所をいい加減によんでるんで 餘す。」[夫で面白いんですか][何故?]「何故伝、小説ン科、そうして讀む方が面白いで「す」[餘つ程變つて入らつしゃるのね]「ええ、些と変つてます」「初からんじや、どうして悪いでう」「初めから読まなけりゃならないとするとするとすると、仕舞迄讀まなけりやならない譯になりませう」「妙な理屈だこと。仕え舞うまで讀んだって良いじゃありませんか」「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしたつて、左様します」「筋をよまなけりゃななあにを読むんです。筋の外に何か読むものがありますか」長い引用になた。

しかし文学とは「漱石」の言葉のように」プロットではない。何処から読んでも]面白いのが本当の文学ではなかろうか、近頃の文学は内容がなくプロットだけだ。